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Florida日記

……ともいえないエッセイ

1.フロリダ州マイアミ(2004年4月1日〜6日)

 4月から1年間、サバティカルというやつで、大学の授業は休みである。これは7年ほど大学に勤めると1年か2年、研究期間がもらえるという私学のシステム。大学の教員というのは研究と教育の両方を受け持っているのだが、私学の場合は国公立と比べて、教員が教育に費やす労力があまりに大きい(まあ、嘘だと思ったら、教員ひとりあたりの受け持ちの学生数や受け持ちの授業数を比べてみるといい)ので、これではろくに研究もできないだろうと、7年以上教えたら、1年か2年くらいは教育を免除してやろうというシステム……だと金原は了解している。

 というわけで、今年1年間はしっかり研究にあてたい思っている。研究のテーマは「エスニック文化」と「主流からはずれたところにある文化」のふたつ。具体的に何をするかというと、英米の小出版社の動向をさぐるのがひとつ(これは、イギリス、アメリカ大使館と連絡を取って)。それからカナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、インドあたりの英語の出版物を出している出版社をたずねること。たぶん、このふたつをこなしているうちに1年なんか、すぐにたってしまうと思う。

 これになんでフロリダがからんでくるんだと思う人がいるかもしれないので、ちょっと説明を。
 が、そのまえにひとつ、問題を。
「合衆国で最も南にある州はどこでしょう?」
 フロリダ州と答えた人は大間違い。ニューメキシコ州と答えた人も大間違い。正解はこの章の最後に。
 それはさておきフロリダ州である。なぜこんなところにいったかというと、カリブ系の作家の作品をさがしにいったのである。いうまでもなく、キューバ、ジャマイカ、セント・ジェイムズ、ハイチなど、カリブ海の島々とアメリカを結ぶのが、ここ。いってみれば、カリブ諸島への表玄関のようなものである。

 もっともキューバとは1961年1月以来、アメリカは国交断絶をしているから、もちろん、国交はない(そして1962年に「キューバ危機」が起きる。このあたりについて興味のある方は、ぜひ、〈http://www.maedafamily.com/〉をたずねてほしい。ひとつの誤報によって第3次世界大戦が回避された経緯などが詳細に書かれている)。

(さらについでなのだが、じつは7、8年前サンフランシスコにいたときはまだ愛煙家で、葉巻にこっていた。サンフランシスコにはとてもいい葉巻の店があって、そこにいくと、温度と湿度が完璧に調整してある葉巻の貯蔵場所があって、そこで1本1本、好きな葉巻を選んでいくのがたまらなく快感だった。あるとき庶民の手に入る最上級の葉巻が入っていて、値段が1本45ドルだった。それはともかく、そこの主いわく、「ケネディの馬鹿野郎があんなことしなけりゃ、アメリカでもハバナの葉巻がまだ吸えたのに!」。このへん、気になった人はハーヴェイ・カイテル主演の映画『スモーク』参照のこと。さらにさらについでなのだが、アメリカ人葉巻愛好家のキューバ産葉巻へのオマージュ〈敬意〉といったら、想像を絶するものがある。

たとえば、アメリカで出ている葉巻の本、それもそれぞれの銘柄に点数のつけてあるものをみると、それがよくわかる。有名な銘柄に「ロミオ・イ・ジュリエット」というのがあるのだが、これが2種類ある。ひとつはハバナ産、もうひとつはドミニカ産。で、ハバナ産のほうが点数が高い。同じ銘柄でハバナ産があるとほぼ必ず、こちらのほうが点数が高い。やはり、手に入らないものはおいしく思えるらしい。今回フロリダにきておもしろかったのは、そういう葉巻の有名ブランドのものがいろんなところで売られていることだった。もちろん通販もある。それに安い……が、いうまでもなく、キューバ産の葉巻は売っていない。もし売っていれば、それは違法である。もちろん、日本では簡単に入手できる。興味のある方は、銀座の菊水や新宿の紀伊国屋ビルにある加賀屋をのぞいてみてほしい)

 閑話休題。しかし国交断絶とはいえ、キューバからの難民は続々とフロリダにきているし、また、カリブ諸島からの移民の数もかなりにのぼる。ちなみに、今回正味3日間の滞在だったが、時間がないため移動にはほとんタクシーを使ったところ、全員がヒスパニックで、スペイン語と英語のバイリンガル運転手ばかりだった。たまに、英語がかなりあやしい運転手までいた。とくにマイアミあたりはカリブ諸島からの移民、またヒスパニックの人々が多く、ある意味、マイアミのダウンタウンはロサンゼルスのダウンタウンとずいぶん似た雰囲気がある。

 ともあれ、今回の目的はカリブ系作家の作品、情報の収集だった……と思うが、その成果は買ってきた本を読んでしまうまではわからない。数はそこそこあるものの、すべてはずれというケースがなきにしもあらずなので。
(アメリカ最南端の州は50番目の州。もちろん、ハワイである)


2.キーウエスト

 それはともかく、キーウエストまでいってきた。合衆国本土の最南端の島である。なぜいったかというと、もともと温かい、いや、暑いところが好きだからである。しかしそれだけではない。ここはヘミングウェイが邸宅をかまえた島なのだ。ヘミングウェイの遺作『ケニア』(アーティストハウス/原作 "True at First Light" )を訳したのも、彼の大ファンだったからであって、それ以外の何物でもない。とにかく、金原はヘミングウェイが大好きなのである。もしどこかの出版社が「ヘミングウェイ全集」を出す、それに際してはすべて金原訳でいきたい、といってくれば、これ以後、ほかの翻訳の仕事は一切引き受けないで、それに没頭することをここに誓う……といったところで、そんな出版社はないだろうな。あのセンチメンタルなところもふくめて、ヘミングウェイは好きなのだ。

 ま、いいや。そんなわけで、ヘミングウェイ詣でというのもあって、キーウエストにいってきた。ついでに書いておくと、テネシー・ウィリアムズもここに滞在していた。
 ここにいくには、フロリダ半島の最南端から島々をつないで走るハイウェイを使うのが一般的。もちろん、グレイハウンドバスでもいける。「地球の歩き方」には「マイアミ〜キーウエスト間は約250km。車なら片道約3時間半の行程だ」と書かれている。しかし、日帰りでと思ったなら、これを鵜呑みにしてレンタカーでいってみようなどとは考えない方がいい。

 じつは金原、車の免許を持っていないので、日帰りのツアーでいくことにした。マイアミビーチからだと片道、正味4時間弱+途中休憩20分。それも最低時速70マイル(110キロ以上)でとばしての話。グレイハウンドバスだと4時間半はかかると思う。日本人にはかなりきつい。ただ座席にすわっているだけでもしんどかった。レンタカーでいくなら、キーウエストで1泊。日帰りならツアーで。

 まあ、それはともかく、キーウエストは暑かった。暑いところが好きな金原にはとても楽しかった(4月は沖縄で講演なので、これも楽しみである)。
 ヘミングウェイの邸宅は、有名なわりに小さかった。なんてことないおうちで、猫がそこここにいて、プールがあるという程度。彼がこの場所を買って、この屋敷を建てるのに莫大な財産をつぎこんだ(「地球の歩き方」によれば「プールが完成したとき彼が1セントコインをプールサイドのセメントに押しつけ、『さあ、これで最後の1セントまで使い果たしてしまった』といったらしいが、たいしたことのない屋敷である。が、ちょっと気になって不動産屋をのぞいてみたら、1ファミリー向け3ベッドルームの家が200万ドル、というのをみて、ほう!と思ってしまった。さすがに鎌倉、逗子の比ではない)。
 ちなみにこの島で買ってきた本が2冊ある。1冊は『あんたも仕事やめて、キーウエストにこないか』、もう1冊は『キーウエストのタクシードライバーの告白』。両方ともキーウエストの弱小出版社の本。アメリカの地方を旅行していて何が楽しいといって、こういうロコ(ローカルな)情報にぶつかることがなにより楽しい。この2冊、おもしろいかといわれれば、ちょっと考えてしまう。まあ、そこそこ、かな。

 しかし考えてみれば、2冊ともアマゾンで買えるというのがすごい。ウェブの通販もここまできたか、という感じ。とはいえ、こういう本はネットでぶらぶらさがしていたのでは決して出会えない。現地で、おやっという感じで手に取る本なのである。

 『キーウエストのタクシードライバーの告白』の作者はこんなことを書いている。「なにしろキーウエストは遠いから、旅費もかかるし、ホテル代も高い。だからえてして、観光客はタクシー代を値切ろうとする。しかし、考えてもみてほしい、タクシードライバーだって、ここでビールを飲めば観光客と同じ値段を払うんだ」

 なるほど、たしかに。ついでに書いておくと、合衆国のあらゆる場所で、ひとりあたりのアルコールの消費量が最も多い地域がここらしい。
 ここを訪ねてひとつ残念だったのは、スカイダイビングをする時間がなかったということである。

 本題にもどろう。ヘミングウェイの大好きな金原はここまできたのであった。ここの写真などは、もしちゃんと写っていれば、金原のホームページにアップされるはずである。
 乞うご期待である。

(※編集注 本エッセイは当初、先に文章のみを掲載する予定だっため、上記のような記述になっていますが、写真と同時の掲載となりました)

3.海外旅行というもの

 じつは、金原の場合、昔から海外旅行にはトラブルがつきものである。もうずいぶん前のことになるが、母親がなにを思ったか、エジプト・ギリシアのツアーにいきたいといいだした(15年ほど前まで母はほとんど海外になどいったことはなく、父とふたりで中国を訪れることになっていたその年、父は癌で亡くなってしまった。母は良き伴侶を失った心の痛みに耐えかねて、「あたしは海外にいく!」と宣言して、半年もしないうちに海外旅行に出かけてしまった。それ以後、ほぼ毎年、いや、それ以上の頻度で海外に出かけている。いまだ心の痛みはいえないと、本人はいっている)。

 そのエジプト・ギリシア旅行である。もともと観光の嫌いな金原であるから、最初は断ったのだが、やがて「おまえ以外に暇な親族はいないらしい。荷物持ちにいらっしゃい」といわれて、仕方なくついていくことにした。もちろんツアーである。

 当時、エジプトへの直行便はエジプト航空しかなかった。いや、直行といってもトランジットはあって、マニラ、バンコク、カイロ……だったかな。そこで成田を出発して、まずマニラ到着。これがすごかった。なにしろ着陸する衝撃もすごいし、そのあとのスピードもすごい。エジプト航空は空軍あがりのパイロットが多いから、操縦が乱暴だというのはきいていたものの、すごかった。ところが、かなりのスピードで滑走路を走っていく最中に、飛行機が急カーブを切った。おいおい、これがミリタリー風の着陸なのかと思ったのだが、しばらくして止まっても、おりるようにという指示がない。それから2、30分して指示が出たのでおりてみると、なんと下は滑走路ではなく、野原。

 それからトランジットだというので、空港のなかに連れていかれて、そのまま、1時間弱。やっと、ガイドさんがやってきて、今晩はこのままマニラのホテルに……とのこと。われわれは首をかしげながら、ホテルへ。そこで、「いつ飛行機は出るのか」ときいてみたら、エジプト航空の人は 「Tomorrow morning」という答え。ところが次の日になっても一向にその気配はない。で、関係者にたずねたら、「Tomorrow morning」とのこと。

 やがて、真相が明らかになった。マニラの新聞に写真入りで大きく出たのだ。
 着陸の際、パイロットが着陸態勢を取るのが遅れて、滑走路を飛びだしてしまい、前方に障害物があったので急カーブを切って、野原に突入したときに飛行機の脚が折れた。現在、修理中だが、いつ飛べるようになるかは不明である。

 という事情だったらしい。そこでエジプト航空の人と話をしたところ、「着陸態勢を取るのが遅れたのは機長のミスだが、あわや大惨事にならずにすんだのは機長の腕がよかったからだ」などという妙な答えが返ってきた。さすがエジプト航空である。20年ほど前だろうか、エジプト航空の旅客機が砂漠のまん中に不時着したことがあった。無線連絡で全員無事救助されたのだが、不時着の原因が燃料の積み忘れだったという。さすがというほかはない。

 ともあれ、そういうわけで、結局、脚は折れたまま、われわれはマニラに1週間足止めをくったあげく、そのまま成田にもどることになった。この1週間、ガイドさんは大変だったと思う。ツアーの客からは責められ、エジプト航空はいくらかけあってもらちがあかず、本社も手の打ちようがないという状態だったのだから。ともかく全員、成田に帰ってほしい、ツアーの代金は返却するからといっても、「ひと目でいいからエジプトの朝日をおがみたい」という客もいるし……。

 まあ、すったもんだしたあげく、全員しかたなく帰国ということで話がまとまった。ところがマニラの空港でまた一悶着あった。というのも、マニラにトランジットで寄ってそのままホテルに直行したため入国扱いになっていなかったのだ。入国の手続きをしていない人間が出国できるはずがない。出国審査のところで、全員、待ったがかかった。1週間、ストレスがたまりにたまっていたガイドさんはかわいそうだった。が、交渉次第でどうにでもなることだったらしく、ひとり10ドルずつ出せば通してくれることになった。さすがマニラである。

 こうして成田にもどってみると、台風。やれやれである。いまだ母も自分もエジプト、ギリシアには縁がない。

 で、今回のマイアミである。じつはあまりにおもしろいので、東京にもどってすぐ何人かにメールを送ったから、それをここに載せておこう。
 ついさっき、フロリダはマイアミからもどってきたところ。
 いやあ、まいった、まいった。

 というのも、今朝方、帰りの飛行機のフライトの時間を確認しようと思って、ノースウェストに電話して、コンファーム番号を伝えて、「明日の昼前のフライトなんだけど、確認をお願いします」といったところ、「その予約番号で明日、KANEHARAは入っていない」といわれて、あーあ、やっぱりアメリカの航空会社はこれだからなあ、と思って、「いや、手許の航空券では、ちゃんと入ってるんだけど、調べ直してみてください」といったら、「あ、あった……けど、これは今日発だよ」とのこと。アメリカ人はおおざっぱだからなあと思いつつ、「手許のチケットには4月5日発と書かれているんですけど」といったら、「4月5日は今日なんだけど」と言われてしまった!!!

 11:18発の飛行機だというのに、まだホテル。時刻は9:30。だめじゃん。国際便は2時間前にチェックインが常識。で、「あーーー、どうにかなりませんか?」とたずねたら、「保証は出来ないけど、空港に飛びこんでフロントにかけあってみたら?」といわれ、もう洗面用具からなにからすべて捨てて、取る物もとりあえず、ホテルを飛びだしてタクシーで空港へ……まあ、なんとかしてもらったんだけど、ほんと、びっくりした!
 こういうこともあるのだ。
 このメールを送ったら、元TBSブリタニカの編集をしていた江口さんから早速返信があって、これがまた傑作なので、本人の了承を得て、ここに紹介。
 飛行機、大変でしたね! 飛行機が大変なんじゃなくて、勘違いぶりが大変。直前に日付変更線を越えて移動してたわけではなく、純粋に間違えてたんでしょうか? 豪快ですね。私もボルネオ島から日本に帰る飛行機に乗り遅れたことがあって、それを思い出しました。

 基本的には原生林のなかにいたのですが、帰国前日は市内の空港近くに宿をとり、ホテルのフロントの人に、「明日、朝5時のフライトなんだけど、何時に出たらいい?」とあらかじめ尋ねて、その時間に空港行きのタクシーを手配しておいてと頼んでおいたにもかかわらず、時間になってフロントに下りたら、みんなソファで寝てる。もちろんフロントデスクの人が。あわてて起こしてタクシーを呼んでもらったのだけど、どうも、そもそもの時間からして飛行機のボーディングタイムぎりぎり。ボルネオから東京への直行便だったのだけど、こういう僻地は出国審査も並ばないので数秒で通りぬけるだけだから、ぎりぎりでもいいのかな〜、でも、ホテルを出た時間からして予定より遅れてるし、と不安に思いながら空港について、荷物を降ろしたところでチェックインカウンターの人に、「とっくに締め切ったよ。だって離陸まであと5分じゃない。来るのが遅すぎるよ」と。

 目の前がまっくらになりました。
 持っているのは格安チケット。もちろん次の便に振り替えなんてできない、はず。というわけで、金原さんの「ビックリ」感、よくわかります。

 その後、どうなったかと言いますと、事情を空港の人に話したらチケットを調べてくれ、「これなら次の飛行機でも乗れるよ。大丈夫」。  ほんとか?
「次の飛行機は?」「明後日だね」……そんなに先かい。

 混乱・動揺した頭でホテルに電話をかけ、「このような事態になったのは、あなたがたのせいでしょ。違う? 責任はとってもらいたいんだけど」とねじこんだところ、「その通りだ。いったんホテルに戻ってくれ。なんとかする」と。

 結局、ひと晩はそのホテルで過ごし、翌日の別の航空会社の飛行機で帰ってきました。仕事は1日余計に休むことになりましたが、それより「海外で飛行機に乗り遅れた」ということのショックの大きいこと。呆然とひと晩を過ごしたものの翌日には立ち直って、街でもぶらぶらするかと出かけて戻ったら、急に「次の飛行機に空きが出た! 急いで空港に行って!」と。なにもかも適当にバッグに詰めてホテルを後にしたら、この顛末の一部始終を書いた日記を置いてきちゃいました。

 しかも、帰国後に知らない人から家に手紙が来たのでなんでだろうかと思って読み進めたら、ホテルのフロントで私の住所を聞いたというんですよ。そのうえ、とくに用事はない。「ホテルの前であなたを見かけて、手紙を書きました。あなたの住所はホテルで聞きました。あのホテルにはぼくの友達が勤めているのです」

 大都市だったらゾッとする話ですが、ボルネオというのどかな島のことなのでムッとするくらいで済みました。まったく。
 とまあ、色々あるものらしい。

4.失敗談(補遺)

 というふうな失敗談をメールで配送したら、今年共訳で1冊本を出すことになっている豊倉さんから(元日本の航空会社のアテンダント)次のようなメールがきた。ううん……これはみんな知っておいたほうがいいと思うので、ぜひ読んでおいてほしい。
 大変でしたね。でもその日を4日と勘違いしてて、完璧もう1日あると思ってらしたんですか?
 でも、そうそう、そういえばいました。そういう〈困ったちゃん〉のお客様が……(^^)。駆け込みぐらいは向こうもなれてるから大丈夫ですよ。

 こういかにもあせって「どうしよう……」という感じでこられると、こっちも助けてあげたくなっちゃう。国内線なんかだと、5分前に「乗せてくれぇ」……というお客さまもいましたね。そういうときには「大丈夫、ご案内しますからついてきてくださいね!」といって、ゲートまでよく一緒に走ってました。

 でも、態度の悪い、横柄なお客さまだと「どーしよっかな〜」ってことも……。だってホントにいるんですよ。自分が遅れておきながら「わしはこの会社の株もっとんねん。飛行機なんか待たしとかんかい!」という人が……。
 ま、その辺の裁量は係員によるところも大きいので、親切な(あるいはアバウトな)アテンダントでよかったですね。

 さて、ここで問題です。ノースウエストのエコノミークラスの機内食1食分の原価はいくらでしょう?
 なんだ、そんなにあわてることなかったんじゃん! じつはホテルに忘れ物がかなりあって、あーあ、もったいない、けど、飛行機に遅れるよりはよかったと思って自分を慰めていたんだけど……リコンファームのことを考えると、これはある意味、きわどいかもと思うので、3年間ほど日本エアシステムのアテンダントを務めてきた豊倉さんからきたメールをもうひとつ紹介しておこう。そんなに融通がきくなんて、一般の人は知らないもん。
 そうですね。そういえば、意外とみんな知らないのかも……。でも、たまたまコンファームの電話をしてよかったですね。最近、JALなんかではコンファーム不要になってるので、そういう場合だと完全に「OUT!」でしたよね。

 コンファーム不要って便利だよねって思ってたけど、いいこともあるもんです。たぶんその電話をした段階で電話を受けた係員がカウンターに一報しといてくれたんじゃないですか? 「これからそういうお客様が向かわれると思いますので 搭乗手続き締め切らないでね……」って。

 あ、でもアメリカの航空会社だと、そこまでの気配りはないかな……。ま、セキュリティーのタイト具合にもよるけど、1時間切らなければ……大丈夫かも……。ニューヨークじゃなく、マイアミという土地柄もよかったのかもしれませんね(なんかアバウトそうでしょ)。

 でも、そのときの先生の驚き&慌てぶりは想像できます。ちょっとみてみたかったかも〜。とにかく間に合ってよかったですね!

 するどい! 機内食、10年くらい前だけど(たぶん今もあんまり変わってないと思う)確か170円くらいって聞いた気がします。
(へぇ〜、へぇ〜、へぇ〜……)
 機内食、どこもいまいち(いや、いまに、いまさん)ですよね。シンガポールとかまだましだったような……いやそうでもないかな。どこかおいしかったのってあります???

 私はちょうど3年つとめたかな……いろんなことがあっておもしろかった。おばさんが真っ青な顔でカウンターにかけこんできて「ト、ト、ト、トイレに搭乗券流しちゃったのよぉ〜!」とか。カップルで不倫旅行(たぶん、これは私の想像)に行くために搭乗予定の便が天候不良で欠航になったのをきいて、キレた男がカウンターに怒鳴り込んでるうちに、女の方は愛想をつかしてさっさと帰っちゃって……さらに男が怒って暴れた……とかね。

 人間、けっこうパニックになってるときに、その人の本性が出るものなんですよね。新人のときにはお客さまのパニックに巻き込まれて「え〜っ! どうしましょう……」とかやってましたけどだんだん慣れてくると、「大丈夫。なんとかしますから、まず落ち着いてくださいね(にっこり)」っていえるようになるんですね〜これが……。でも自分がそういう仕事やってると、レストランとかホテルとか行った時なんか、従業員の対応とか、妙にチェックが厳しくなったりして「どーして? なんでそれくらいできないの?」とか思ったりすることも。「いかん、これじゃ、私、クレーム客じゃん」と反省したりして……(^^;。ブラックリストに乗らないように気をつけましょう。
(あるんですよ、ブラックリスト。知ってました?)
 ブラックリストがあるなんて、知らないって!
 しかしこのあと、三辺さんから(『龍のすむ家』(クリス・ダレーシー作/竹書房)メールがきた。これもまた耳を傾けておいたほうが、いや、しっかり読んでおいたほうがいいと思う。
 飛行機、無事お乗りになれてよかったですねー。
 昔イタリアの国内線に乗るとき、さんざんリコンファームの電話したのに、朝昼晩だーれも出なくて、けっきょく当日に空港へいったらフライトがキャンセルされていたことがありました……怒ったけれど、相手にしてもらえず、悲しい気持ちで航空券を買いなおしていたら、オフィスでずっと電話が鳴り続けているのに、だれも出ていなかった……暇そうな社員がたくさんいるのに……こうやって私のリコンファームの電話はずっと無視されていたのね……と思ったけれど、イタリア語の話せない私は涙を飲んだのでした。

5.ちょっと印象的だったエピソード

 そんなわけで、どたばたしたあげく、ホテルにお土産を入れた袋をふたつ置き忘れてきてしまったのだが、帰り、成田行きの飛行機のなかで、思いがけない出会いがあったので、これもまたメールからの引用で。
 ところで、今日は日にちの覚え違いでずいぶんな目にあったんだけど、帰り、デトロイト=成田便で、ちょっと楽しい事件があった。といっても、ささいなことなんだけど、自分にとっては、すごいことでもあって、さっきから酒を飲みながら、ちょっと感動しているところ。

 じつは、飛行機の隣に色の黒い青年が座っていて、これが無口なんだけど、表情がやさしくて、なんとなく若々しく、ぼくがトイレに行こうと座席から腰をあげると、すぐに察して、通路に立ってくれる。もどってきて、「Thank you」というと、にっこり微笑んでくれる。スチュワードが食事をききにくると、ちょっとなまった英語で返事をするところをみると、どうも、多少は英語ができるらしい。けど、たいしてしゃべれない様子。

 なんとなく気になって、ちらちら見ていたんだけど、どうも不思議なのは、黒人には見えないということ。色がけっこう黒いから、白人との混血かもしれないんだけど、雰囲気が違う。かといって、もちろん白人じゃないし、われわれモンゴロイドと違う。そこで、成田近くになってから、英語で、どこからきたのかたずねたところ、「パラーオ」という答え。一瞬、なんのことかわからず、聞き返したら、「コラール」という答え。首をかしげていると、その青年が、ノースウェスト航空のパンフレットを出してきて、後ろのほうにある地図で教えてくれた。「Koror」という島。グアムの西の方にあるヤップ島のさらに西。へえ、こんな島があったんだと思って、「なんで、アメリカから?」とたずねたら、「American Army に入っている」とのこと。そこで、この島のことについて、あれこれきいているうちに、青年が「祖父が日本人だ」といいだした。「じゃ、会ったことは?」ときいたら、「一度、会ったことがある。Strong and strict manだった」。「で、おじいさんはどこに住んでる?」と聞いたら、「日本だ。世界大戦が終わって、日本にもどった」という答え。これをきいて、頭のなかの電線にばしばしっと電気が通じて、「!!!」。

 そう! わが敬愛する作家中島敦のいたところじゃん!
 パラオ(現在はパラオ共和国)のコロール島に南洋庁があって、彼はそこに赴任したはず。そうそう、調べてみたら、1941年6月パラオ南洋庁国語編修書記に任ぜられている。そうか、この青年は、当時、コロール島に移住していた、あるいは軍属のひとりとして赴任していた日本人の血をついでいるんだ。というふうなことが次から次に頭に浮かんできて、つい、なんとなく涙までにじんできてしまった。

 成田に着いたとき、「いつまたアメリカにもどるんだい?」ときいたら、「1か月ほどしてから」ということ。
「Good luck!」「 You, too!」という挨拶で、成田で別れたんだけど、なんか、すごいことを教えてもらったような気がして、まだちょっと感動がおさまらない。
 そうか、中島敦全集、全部読み終えてないなと反省。それに、中島敦がパラオの島々から子供に送った手紙集も読んでない。読まなくちゃ。

6.戦時下に喪われた日本の商船 (Museum of Japanese Merchant Ship)

 コロール島出身の青年のおかげで、コロール島の位置もはっきりわかったし、なにより中島敦と南洋庁のこともしっかり思い出すことができた。しかし彼のおかげで、もうひとつ感動的な出会いがあった。今度は、それもネットのなかで。

 中島敦とパラオ、コラール島のことに関して何かないかなとネットで調べていたら、三輪祐児氏(ペンネーム田中祐三)のHPに行き当たった。これが「戦時下に喪われた日本の商船(Museum of Japanese Merchant Ship)」。第2次世界大戦で失われた日本の商船を徹底的に調べて、それに詳細な注をつけたもので、商船画については多くを上田毅八郎氏に提供してもらったとのこと(あとで三輪氏ご本人からうかがった)。中島敦の乗っていたパラオ丸のことも詳しく書かれている。

 そしてまた、リトアニアで杉原千畝総領事が発行したビザを握りしめたユダヤ人難民の第一陣をのせて敦賀までやってくる「はるびん丸」の注も素晴らしい。そのとき救われた6千人のひとりサムイル・マンスキー氏の言葉が載っている。「小さな家々が立ち並ぶ、花にあふれ、美しい町並みをした、非常に礼儀正しい人々の住むおとぎの国、これが敦賀の第一印象でした。私は、敦賀で初めてバナナを食べましたが、あんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてでした」

 海戦というと、軍艦、航空母艦、駆逐艦といった海軍の船しか連想しないが、太平洋戦争では日本商船が非常に大きな意味を持っていて、米軍は徹底的にこの商船をねらったらしい。そしておびただしい数の商船が太平洋に沈み、乗っていた人々が死んでいった。今までほとんど顧みられることのなかった商船を取り上げたこのサイト、そしてその充実ぶりには驚いてしまった。

 ひとつひとつの商船をクリックしてその写真や絵をみて、注を読んでいくと、もうとまらない。胸が熱くなるというか、胸が詰まるというか、なんともやりきれない気持ちになってしまう。

 興味のある方はぜひぜひ、このサイトを訪ねてみてほしい。
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/index.htm
 旅もネットサーフィンも、こういう思いがけない出会いがうれしい。

 もう少しだけ付け加えると、『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(東京大学出版会)からの引用されている「魔のバシー」も印象的だ。
 台湾の最南端の岬ガランピン岬からフィリッピンの最北端アパリの間の海、之をバシー海峡と謂ふ。時速十七ノットの船ならば朝ガランピンを出れば夕方遅くアパリに着く。こんな小さな海こそ太平洋の最も難所と云はれる所てある。
 大束亞駿争も第三年目の昨年辺りから相当物騒になつてゐたが、本年則ち昭和十九年の七月に至り俄然危険となつて、我々暁部隊の者等からは『魔のバシー』と云はれる様になつた。それと云ふのも此の小さい海に米国の潜水艦が続々と出現し、現在約八〇隻以上が我輸送船を襲はむものと待機してゐるのである。彼等は六月末にオーストラリアを出発した四〇隻とホノルルから来た四〇隻とが合流してゐて、支那湾岸に根拠地を持つてゐるのである。
 ここでアメリカのためにもひと言。
 サンフランシスコのフィッシャーマンズ・ワーフのはずれに、本物の潜水艦が浮かんでいる。実際に入って中をゆっくり見学できるようになっているのだが、まことに狭い。むちゃくちゃ狭い。こんな乗り物のなかに何か月もいるなんて、とうてい考えられない、というくらい狭い(たぶん、日本の潜水艦はもっと狭かったのだろう(※))。

 そしてその潜水艦の脇に解説のボードがある。それによると、アメリカの陸海軍のなかで最も死亡率の高かったのが潜水艦の乗組員であったらしく、これだけは志願兵しかとらなかった。そしてまた、行方不明のままの潜水艦もずいぶんあるという。とくに太平洋で多く沈んでいる。考えてみれば、この「魔のバシー」がその中心だったのかもしれない。このサンフランシスコの潜水艦には3度入ってみた。上に出て、この解説ボードを読むたびに、心をうたれた。

 アメリカはアメリカで、日本は日本で、自国のために死んでいった人々がいたのだ。そしてその結果が、このイラク戦争、さらに自衛隊派遣という現在につながっていると思うと、本当にやりきれない。

(※編集注 日本の潜水艦の大きさについて、本エッセイでご紹介のHPを作られている三輪氏よりメールをいただきましたので、ご本人の了解を得て以下に一部をご紹介します)

「たぶん、日本の潜水艦はもっと狭かったのだろう」
という部分がありますが
実は日本は潜水艦には独特の思いいれがありまして
世界でも特大、中には飛行機を格納できるくらいの
超大型潜水艦、いわゆる伊号潜水艦、
というのをつくっておりましたので
広さだけに関して言えば、日本の潜水艦は
もっと広かったのだろう、と思われます

7.最後に

  というわけで、とりあえずフロリダからは無事帰国。収穫はあったのかときかれれば、「送った本を読んでしまうまではなんともいえない」と答える以外ない。
 しかしきっと、いい作品がみつかると思う。
 どうか、期待していてほしい。

copyright © 2004 Mizuhito Kanehara

last updated 2004/4/30