管理者:金原瑞人

Tom Stoppard (トム・ストッパード) 作 
The Coast of Utopia (『ユートピアの岸辺』)三部作

第一部 Voyage (『航海』) 
第一幕 
とき   1833年夏〜1841年秋
ところ  バクーニンの生家(Premukhino モスクワから北西方向百五十マイル)  

主な登場人物 (年齢は芝居の始まりの時点でのもの)
ミハイル・バクーニン  のちの革命家・無政府主義者(19歳)
アレクサンドル     ミハイルの父 (69歳)
ヴァルヴァーラ     ミハイルの母 (42歳)
ミハイルの姉妹     リュボーフィー(22歳)、ヴァレンカ (21歳)
タチヤーナ (18歳)、アレクサンドラ(17歳)

スタンケーヴィチ    モスクワ大学学生。「哲学サークル」主催者
ナタリー        哲学サークルに参加している娘
ベリンスキー      スタンケーヴィチの友人。文芸評論家。
ツルゲーネフ      バクーニンより数歳年下の友人。のちの作家。

 芝居は1883三年の夏に始まる。当時のロシアでは、ロマノフ王朝の皇帝による専制政治が続いており、言論の自由が抑圧されていた。バクーニン家は名門貴族の家で、彼らの生活は五百人の農奴の労働に支えられている。首都ペテルスブルクの砲兵士官学校を卒業し、軍人としてモスクワに赴任することになったミハイルが久しぶりに生家に帰ってきた。長姉のリュボーフィーは十四歳年上の男爵と婚約していた。当時は、親が娘を、経済力のあるずっと年上の男と結婚させるのはありふれたことだった。
 ミハイルの反対で、結局、リュボーフィーは結婚しなかった。だが、その代わりのように、ヴァレンカが父の意向で、はるかに年上の男と結婚し、すぐに妊娠した。ミハイルはモスクワ大学の学生、スタンケーヴィチの部屋で行われる「哲学サークル」の集まりに参加し、スタンケーヴィチや、常連の勝気な娘ナタリーと交友を深めた。やがて、ミハイルは病気を口実に軍を辞め、父の怒りを買う。
 ミハイルの姉妹はモスクワに行ったときに、哲学サークルのメンバーと会ったことがある。リュボーフィーはスタンケーヴィチに思いを寄せている。ナタリーもスタンケーヴィチが好きなのだが、娘たちの見るところ、スタンケーヴィチはリュボーフィーが好きらしい。だが、カントに傾倒し、本能に基づく行動を卑しむスタンケーヴィチからは何の意思表示もない。スタンケーヴィチがバクーニン家に遊びに来てもふたりの間の会話ははずまない。リュボーフィーはパーティーで拾った懐中ナイフを、スタンケーヴィチのものだと思って、ずっと身につけていたが、ふと、彼のものではないかもしれないと思いはじめた。スタンケーヴィチに尋ねると、彼は自分のものではないと言いながら、もらっておこうと受け取った。
 1836年春。モスクワにいたミハイルが家に戻ってきた。彼は雑誌『テレスコープ』に掲載された自分の翻訳を得意げに姉妹に見せる。それはフィヒテの論文の翻訳だった。このころ、ミハイルの思想傾向は、かつて心酔していたシェリングからフィヒテへと変わっていた。友人のスタンケーヴィチは呼吸器を悪くして、コーカサスに保養にいっていた。この年の8月、ヴァレンカは子どもをつれて実家に戻ってきた。夫とうまく行っていないらしい。ある夜、哲学サークルのメンバーで、『テレスコープ』の編集に携わり、文芸評論記事を書いているベリンスキーがバクーニン家を訪れた。彼は医師の息子で、農奴制を批判する劇を書いたために大学を放校になり、ジャーナリズムに活路を見出していた。検閲の厳しいロシアでは政治的な文章を発表することはできないので、彼は文芸評論を通じて、世の中を変えようとしていたのだった。風采のあがらない若者だが、タチヤーナはひと目で彼に魅せられ、誰よりも大きな人だという。ベリンスキーはバクーニン家に滞在し、娘たちと親しくなった。あるとき、彼が近くの池で釣った鯉の腹の中から、懐中ナイフが出てきた。秋になり、ベリンスキーとミハイルに衝撃的な知らせが届いた。『テレスコープ』が発売禁止になり、編集長のナデジュディン(?Nadezhdin)が 逮捕されたのだ。
 1837年1月、病床についていたリュボーフィーのもとに、モスクワのスタンケーヴィチとミハイルから手紙が届き、姉妹は回し読みをした。詩人のプーシキンが妻をめぐる決闘で死んだことが記されていた。スタンケーヴィチは病気療養のため、父親に費用を出してもらって外国へ行くという。スタンケーヴィチの父は何千人もの農奴を所有する富裕な地方貴族だ。スタンケーヴィチとリュボーフィーはどちらも結核に冒されていた。
 1838年春、バクーニン一家は庭で焚き火を囲んでピクニックをした。リュボーフィーはカートに寝床をつくって運び出してもらわなければならないほど、病気が進んでいる。ミハイルはフィヒテからヘーゲルの弁証法へと関心が移っている。彼はベルリンにいるスタンケーヴィチと合流するため、農業を学ぶという名目で父アレクサンドルから費用を引き出そうとする。だが、姉や妹に悪影響を与えたと非難され、失敗に終わる。確かにアレクサンドルの言うとおり、バクーニン家の娘たちは、ミハイルのせいで、平凡な幸福と縁遠くなったのかもしれない。リュボーフィーはベルリンのスタンケーヴィチとの文通を唯一の心のよりどころにしている。ヴァレンカは、夫を嫌って別居しており、近く夫の金で子どもとともにベルリンに行くことになっている。タチヤーナはベリンスキーに思いを寄せ、独り身のままだ。
 1841年8月、23歳のツルゲーネフがバクーニン家を訪れ、タチヤーナと話をした。ミハイルは1840年夏にベルリンに着いたが、スタンケーヴィチはそのひと月前に、イタリアで死んでいた。ツルゲーネフはイタリアでスタンケーヴィチやヴァレンカと交際していたことから、ミハイルと出会い、親しくなったのだった。タチヤーナは1838年の焚き火のことをツルゲーネフに話した。あれは家族が一緒にいて、ある程度幸せだった最後の機会だった、とタチヤーナは回想する。焚き火のあと、ほどなくヴァレンカは旅立ち、リュボーフィーは亡くなった。

第二幕
とき  1834年3月〜1844年秋
ところ 主にモスクワ

主な登場人物(すでに登場した人物をのぞく)
ゲルツェン      若者。のちの思想家、作家。
オガリョフ      ゲルツェンの親友。のちの詩人。
ミセス・ベイヤー(Beyer)ナタリーの母。五十歳ぐらい。裕福な未亡人。
チャアダーエフ    哲学者
カーチャ       ベリンスキーの女

 ときは1834年3月にもどっている。モスクワの公園内の、スケート場に隣接するカフェテリアに、ゲルツェンとその仲間がいて、そばの芝生にスタンケーヴィチが横たわっている。ゲルツェンたちは専制政治を倒そうという志をもっている。スタンケーヴィチは政治的志向よりも哲学や精神世界への関心が強く、彼らとはそりが合わない。ゲルツェンたちが去ったあと、スケート場の方から、ナタリーとその母、そしてモスクワを訪れているリュボーフィーと母のヴァルヴァーラの四人が連れ立ってやってきた。スタンケーヴィチは初対面のリュボーフィーを、自分の主催する哲学サークルの会合に誘う。
 一年後の1835年3月、ミセス・ベイヤーのパーティーに、ミハイルとその姉妹、ベリンスキー、スタンケーヴィチ、チャアダーエフなどの人々が集まった。まだ軍人だったミハイルは、ここで初めてスタンケーヴィチと会った。ゲルツェンとその親友のオガリョフが反政府的言動のかどで逮捕され、流刑に処されたことが話題になり、また、ベリンスキーが編集に携わっている雑誌『テレスコープ』にチャアダーエフが寄稿した文芸評論がほめそやされた。その文芸評論はたくみな言い回しで検閲の目をごまかしながら、「ロシアに文学はない」と断言するものだった。
 ベリンスキーが懐中ナイフを落とし、それをスタンケーヴィチが探してやっていたため、あとで懐中ナイフを見つけたリュボーフィーは、スタンケーヴィチのものと勘違いした。スタンケーヴィチに思いを寄せる彼女は、ナイフを密かに自分のものにした。
 その年の夏、『テレスコープ』の編集部にチャダアーエフが現れ、ベリンスキーに原稿を託した。それは彼が何年も前にフランス語で書いた『哲学書簡』の原稿で、フランス語の苦手なベリンスキーにはとっさに意味がとれなかったが、ロシアの過去と現在を徹底的に批判し、その未来を否定するものだった。
それから一年半あまり経った1836年12月、ベリンスキーは久しぶりにモスクワの自分の住まいに戻った。秋に、あのチャアダーエフの文章を掲載したために『テレスコープ』が発売禁止になり、ナデジュディンが逮捕され、チャアダーエフは皇帝によって「狂人」の烙印を押されて、自宅監禁処分になった。ベリンスキーはモスクワをるすにして、バクーニン家に滞在していたおかげで助かったのだ。ベリンスキーの住まいでは、彼と同棲していた若い女、カーチャが彼を待っていた。彼女の話では何度も警察が捜索に来たという。ベリンスキーはおみやげだと言って、彼女にバクーニン家から持ち帰った懐中ナイフを与えた。(この懐中ナイフは、バクーニン家の池で釣った鯉の腹から出たもの。パーティーでベリンスキーがなくしたナイフと同一かどうかは明らかでない)。
 1837年の春、ベリンスキーのところにミハイルがとまりこみ、ふたりは一緒に『モスクワ・オブザーバー』という自分たちの雑誌をつくる準備をした。ヘーゲル色の強い論文雑誌になった。だが、それができあがるころには、ミハイルは雑誌発行に対する興味を失い、ドイツにいきたいという思いで頭がいっぱいになっていた。ベリンスキーがミハイルの逃避的傾向や「おぼっちゃん」気質を批判し、ふたりは仲たがいをした。
 1840年7月、ミハイルは船で旅だった。それを見送ったのは、流刑地から戻っていたゲルツェンだった。
 同じ年の7月、ベリンスキーはペテルスブルクの街頭でゲルツェンと行き会い、ミハイルにドイツ行きの金を貸したのがゲルツェンであることを知った。ベリンスキーがゲルツェンに『モスクワ・オブザーバー』の感想をきくと、ゲルツェンはベリンスキーもミハイルもヘーゲルの弁証法的歴史哲学をさかさまに捉えていると指摘した。歴史がジグザグに進むから、民衆がバスティーユを襲うのではない。民衆ががまんがならなくなって、バスティーユを襲うから、歴史がジグザグに進むのだ、と。ゲルツェンはヘーゲル哲学信奉者のつどう仮装舞踏会で、ミハイルに会ったのだそうだ。自分が流刑地に送られる前には、ヘーゲルは全く流行っていなかったが、その仮装舞踏会で、オレンジ色の猫の仮装をした者が、ヘーゲルの概念に乾杯するのを見て、世の中の風潮が変わったことを痛感した、とゲルツェンは語る。「『猫』には計画がない。誰かをとくに気に入るということもない。憤りを抱くということもない。記憶も精神も分別もない。無目的に人を殺し、無目的に人の命を救う。だから、もし、『オレンジ色の猫』と目が合ったら、次に何が起こるかは、あいつが決めるんじゃない。きみが決めるんだ」
 1843年春、モスクワで開かれた仮装舞踏会。さまざまな仮装をした人々の中に、オレンジ色の猫の姿も見えた。この舞踏会には、バクーニン家のヴァルヴァーラ、ヴァレンカ、タチヤーナ、アレクサンドラや、ツルゲーネフ、ベリンスキー、チャアダーエフなどの姿があった。ヴァレンカは夫とよりを戻しており、アレクサンドラも結婚していて、それぞれ自分の夫と踊った。ベリンスキーはタチヤーナに、自分はもうすぐ結婚すると告げた。タチヤーナはツルゲーネフに、四千ルーブルの金がないとミハイルが監獄に入れられるとうちあけた。ツルゲーネフはその半額なら出せると約束した。人々が去ったあと、舞台にはベリンスキーとオレンジ色の猫だけが残り、ふたりはじっと見つめあう。
 翌1844年の秋、バクーニン家では、年老いたアレクサンドルが、曇っているのに夕日を見るといってきかない。彼は目も、思考力や記憶力も衰えているようだ。だが、いよいよ日が沈もうとするとき、雲が動き、弱々しい夕日が顔を出した。アレクサンドルのもとに手紙が届いているが、彼はその手紙の内容がよく理解できないらしい。手紙には次のようなことが書いてあった。ミハイルはベルンのロシア公使館に出頭を求められた。スイスで社会主義者の民衆扇動運動に関わり、帰国命令が出たためだ。今、彼はパリにいる。ロシア政府は彼に対する刑事訴追手続きを進めた。勅令により、ミハイル・バクーニンは貴族の身分を剥奪されて、シベリアでの無期の重労働刑に処され、財産は国庫に没収されることが宣言されたという。
 アレクサンドルにつきそうタチヤーナは、父の手をとり、その手で自分の涙を拭った。日はすでに沈み、舞台は闇に包まれる。


【感想】
 第一幕と第二幕に描かれている時期が一部、重なり合っている(第一幕は1833年〜1841年秋、第二幕は1834年3月〜1844年秋)。
 また第一幕の舞台はバクーニン家で、女性の本音の科白が多く、家族愛とか恋愛などが中心に描かれているような印象がある。また、第一幕は、場面(時)が変わるときに、登場人物の一部が舞台に残って、同じ姿勢のまま、次の場面(時)に移るという趣向がうまく使われている。
 第一幕でよくわからなかった事情が、第二幕で明らかになる例もかなりあるが、全てが明らかになるわけではなく、ジクソーパズルになぞらえれば、まだまだ欠けているピースが多い、という感じ。
 第二幕だけに登場するオレンジ色の猫(Ginger Cat)が、何を象徴しているのかは不明だが、おもしろい。
 女たちの科白とは逆に、ミハイルやスタンケーヴィチの科白は観念的なのものが多い。シェリング→フィヒテ→ヘーゲルという思想遍歴にともなって、それぞれの思想が要領よく説明されており、あまり知識がなくてもついていけるようになっている。が、興味のない観客には眠い場面かもしれない。
 またロシア革命前夜についての基礎知識がないとわかりにくいところもあるかもしれない。バクーニン、ツルゲーネフ、プーシキン、ゲルツェンといった作家も今では知っている人が少ないだろう。
 とはいえ、この時代・この状況は魅力的だ。主人公たちが悩む「ロシアの後進性」は、昔の日本の知識人の苦悩にも共通するところがあるし。
 スタンケーヴィチは若死にしたこともあって伝説的存在になっているのかもしれない(なぜか、ストッパードは女性の容姿については何も書かないのに、男性の容姿については書く。スタンケーヴィチは黒い髪、黒い眼のオネーギンのような美男子)。何千人もの農奴を所有する地方貴族の息子で、バクーニン以上の「おぼっちゃま」。繊細なところと鈍感なところが同居している感じ(リュボーフィーとの「プラトニック」ラブとか)。
 ベリンスキーは貧乏で、なんとか文筆で食べていこうとする。バクーニンやスタンケーヴィチとはかなり感じが違う。ごく若いころ、フランス語の小説を翻訳する仕事がはいって意気揚揚としていて、でもフランス語がわからないから、辞書を貸してくれ、とバクーニンに頼んだりするのも、おかしい。目的と手段の別がわかっていて行動的で、ちょっとワルかもしれないが、魅力的だ。ゲルツェンは貴族で、金持ちのようだが、一番頭がよさそうだ。
 デカブリストから続いている「(人民からではなく)貴族からの革命」というのはどこから来ているのか。ナポレオン戦争によって、青年貴族たちが農民層出身の兵士と接し、同時に進んだヨーロッパを見て、ロシアの後進性に気づいたからだ、というのが定説らしい。自分がぬくぬくとしていて、寒い者、痛い者の気持を慮るというのは、それなりに立派なことだが、人民の方がさっぱり目覚めてくれず、皇帝と神様を信じている、というのが革命家たちにとっては悲劇的。それから、革命(思想)家の「政治嫌い」という表現もうなずける。
Tom Stoppard (トム・ストッパード)作
The Coast of Utopia (『ユートピアの岸辺』)三部作

第二部 Shipwreck(『難船』)
概要 48年革命とその挫折を、ゲルツェンの私生活上の出来事とともに描く。

【主な登場人物】
ゲルツェン  作家・思想家 (1812-70) 
ナタリー   ゲルツェンの妻
コーリャ   ゲルツェンとナタリーの二番目の子。聴力障害がある。
オガリョフ  詩人 (1813-77)
ツルゲーネフ 詩人・作家 (1818-83)
ベリンスキー 文芸評論家 (1811-48)
バクーニン  革命家 (1814-76)
ヘルヴェグ(? Herwegh)ドイツ出身の詩人
エマ     ヘルヴェグの妻

第一幕
とき   1846年夏〜1848年6月
ところ  モスクワ郊外のゲルツェンの屋敷〜パリ

 1846年夏、モスクワから15マイル離れたゲルツェンの屋敷 Sokolovo には大勢の反政府的知識人が出入りしている。当時の反政府的知識人は西欧派とスラヴ派に分かれていて、ゲルツェンとその仲間は前者に属する。ゲルツェンと妻のナタリーの間には、七歳のサーシャ、よちよち歩きのコーリャのふたりの男の子と、赤ん坊の女の子タタがいる。コーリャは耳がよく聞こえないらしい。政府に行動を制限されているゲルツェンは、西欧をまだ自分の目で見ていないことにいらだち、誰彼となく口論する。だが、コーリャの耳の治療のためという名目で申請していたパスポートが下りたという知らせが届き、ゲルツェンたちは喜びにわき立つ。
 翌1847年7月、ベリンスキーとツルゲーネフはドイツの小さな保養地に滞在していた。36歳のベリンスキーは肺患が進んでいて、あと一年足らずで死ぬ運命にある。ベリンスキーは、この地で、晩年のゴーゴリが宗教に傾倒し、専制政治を擁護するようになったことを批判する『ゴーゴリへの手紙』を書き、ロシアの社会改革における文学の役割を改めて強調した。その後、ベリンスキーとツルゲーネフは、パリのゲルツェンの住まいを訪れ、そこでナタリーと子どもたち、ゲルツェンの母(ドイツ人)やドイツ出身の詩人ヘルヴェグとその富裕な妻エマに会う。やがて、バクーニン(35歳)もやってくる。バクーニンは、今からロシアに帰るというベリンスキーに、検閲の厳しいロシアで物を書くよりも、妻子を呼び寄せてパリに住めとすすめる。だが、ベリンスキーはロシアの読者が検閲でカットされた部分を想像で補いながら、熱心に読んでくれるようすを語り、ロシアで書き続けたいという。西欧での生活の長いバクーニンとロシアで長く行動を制限されてきたゲルツェンの間にも意識に微妙な食い違いがある。ゲルツェンは自由とは、各人が自分の好きな歌を歌う自由であると同時に、「革命オペラ」に参加するかどうかを選べる自由だという。それらの議論と並行して、病弱でわがままなヘルヴェグの気分が悪くなり、献身的な妻エマやナタリーに介抱されるさまが描かれる。そのとき、4歳のコーリャがはいってきて、ふいに全ての音声が途絶える。沈黙のうちに会話は続き、やがて、ベリンスキーがツルゲーネフらに荷物をもってもらって出て行くことで、彼の旅立ちが暗示される。ほかの者も退場し、コーリャがひとり取り残される。遠くで雷の音がするが、コーリャには聞こえない。雷が近づいてきて、コーリャはきょろきょろあたりを見回す。銃撃音や叫び、歌声、太鼓などの音が轟き、女の声が「ラ・マルセイエーズ」を歌う。赤い幟と三色旗が翻る。ナタリーが登場し、コーリャを抱いて去る。「1848年2月24日ルイ・フィリップによる王政が終わった」とナレーション。「二月革命」によって国王が退位し、社会主義者を含む臨時政府が共和政を宣言したのだ。
 1848年3月、パリのコンコルド広場。バクーニンとツルゲーネフは30歳のカール・マルクスに会い、出版されたばかりの『共産党宣言』を見せられて、興奮する。そこへ美々しい軍装に身を固めたヘルヴェグが通りかかる。臨時政府に費用を出してもらい、民主的ドイツ人亡命者の部隊を率いて、ドイツのバーデンに進軍するという。
 1848年5月15日、ゲルツェン一家は、エトワール凱旋門の近くのアパルトマンに居を構えている。ナタリーの親友ナターシャもいる。友人のロシア人亡命者、サゾノフとツルゲーネフが訪ねてくる。サゾノフはロシアでも近いうちに変化が起こり、自分たち、西欧をよく知っている知識人が政権に迎え入れられるだろうと期待を口にする。一方、ゲルツェンの口から、フランスの共和政は労働者を排除する方向に向かっていることが語られる。そこへ、戦いに敗れ、打ちひしがれたヘルヴェグがドイツから戻ってくる。
 6月21日、パリで労働者が反乱を起こすが、三日にわたる市街戦の末に敗北した。ゲルツェンたちは一部始終を見て、共和政府の欺瞞性を痛感する。そこへベリンスキーが死んだという知らせが届く。
 このあと、1847年9月の場面の終わりの部分(ベリンスキーの旅立ちを含む部分)がくり返されるが、今回は、ツルゲーネフとベリンスキーの会話がはっきり聞こえ、最後まで音声が途絶えることはない。ベリンスキーは文学への愛を語り、ロシア文学が世界に誇れるものであることを強調する。コーリャが独り残されて、雷鳴が轟く場面のあと、ナタリーがベリンスキーの忘れ物をとりに戻ってきて、コーリャの鼻の頭にキスをし、名前を呼ぶ。コーリャはナタリーの口許を見つめる。ナタリーが去ったあと、コーリャは「コーヤ、コーヤ」と無心につぶやく。

第二幕
とき   1849年1月〜1852年8月
ところ  (主に)パリ〜ニース〜英仏海峡

 1849年1月のパリ。前年の12月シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン三世)が共和国大統領に選出されている。ゲルツェンの住まいで、ヘルヴェグとゲルツェンが『共産党宣言』を前に議論している。ヘルヴェグは、マルクスは反論を許さず、あなたがそういうふうに考えるのは、あなたがあなたの階級の産物だからだと決めつけると批判する。ゲルツェンはマルクスの共産主義は物質主義であり、理想とは相容れないと指摘する。新たに届いた数通の手紙から、ゲルツェンたちは、オガリョフがナタリーの親友のナターシャと婚約したこと、バクーニンが偽名でザクセンに潜んでいることを知る。
 4月、ナタリーは、画家と同棲しているオガリョフの妻マリアを訪ね、オガリョフと離婚してくれるよう頼むが、マリアはオガリョフの所有地から得ている収入を失いたくないという理由で拒絶する。昔話をしているうちにマリアは急に怒り出した。彼女は結婚当初から、オガリョフとゲルツェンの固い絆に組み込まれることに不安を覚えていたらしい。
 5月、ザクセンでは、バクーニンが囚われて、反逆罪に問われていた。バクーニンは、オーストリア帝国を転覆させる計画の基地にしようと、この地に来たが、地元で反乱が始まったので加わったのだった。オーストリア・ロシア両国も彼の身柄を要求している。
 6月パリ郊外のモンマラシー。14年後の1863年に描かれることになるマネの『草上の食事』と同じ構図で人々が配置されている。全裸のナタリーの傍らに、衣服を着たふたりの男、ヘルヴェグとゲルツェンがすわっていて、後方ではエマが花を摘んでいる。エマは身重の体だ。この構図を外から見て、ツルゲーネフがスケッチをしている。一見、ナタリーをスケッチしているように見えるが、彼が描いているのはエマである。実は彼らはモンマラシーのふたつの場所にいる。ヘルヴェグとナタリーが同じ場所にいて、ゲルツェン、エマ、ツルゲーネフがもうひとつの場所にいるのだ。ナタリーはヘルヴェグに、自分の魂は彼とともにあると告げ、逢い引きの約束をして、服を着る。一方、エマはツルゲーネフに、自分の父が前年の政変で財力を失ったため、ヘルヴェグの気持が自分から離れてしまったことを嘆く。やがて二組は合流し、ヘルヴェグはエマに、ゲルツェン一家とともにニースに移り、同じ家に住むことにしたと告げる。
 翌1850年9月。ニースの家に、ゲルツェンとナタリー、その三人の子ども、次男コーリャの言語療法士、ゲルツェンの母、ヘルヴェグとエマとその赤ん坊がいる。コーリャは口の形をまねて発音する方法を学んでおり、かなり上達している。ナタリーは妊娠七ヶ月の身重だ。ナタリーとヘルヴェグは愛人関係にあり、エマは知っているが、ゲルツェンは知らない。11月ナタリーが出産し、子どもはオルガと名づけられた。12月経済的に困窮したエマはゲルツェンに、一万フランの借金をする。翌1851年1月、怪しんだゲルツェンがナタリーに問い質し、ヘルヴェグとの関係が明るみに出た。ゲルツェンは自分がひとり出ていくか、ナタリーとヘルヴェグが出ていくかどちらかだという。ナタリーはヘルヴェグとの愛によって、独善的なゲルツェンとの生活で失われた自分の「命」を取り戻したのだと言いながらも、ゲルツェンのもとを離れることはできないという。そして、エマは今もヘルヴェグを愛しており、ヘルヴェグに自分を見捨てないよう頼んでくれと、ナタリーに懇願する。結局、ヘルヴェグとエマが出て行くことになった。
 同じ1851年の11月。パリに滞在していたコーリャと祖母(ゲルツェンの母)と言語療法士が帰ってくるので、ゲルツェンの家では彼らを歓迎するための飾り付けをしていた。そこへニースのロシア領事が来て、ゲルツェンに皇帝の帰国命令を伝えた。帰ればすぐ逮捕されると知っているゲルツェンは、命令を拒否する旨の手紙を書き、領事に託した。コーリャたち三人はいつまでたっても戻らず、やがて彼らの船が他の船と衝突し、多くの人が死んだという知らせがはいる。ナタリーはこのとき、妊娠していたが、コーリャたちの死に痛手を受けて衰弱し、翌1852年5月、出産時に赤ん坊とともに死んだ。
 1852年8月、ゲルツェンは英仏海峡をイギリスに向かう蒸気船の甲板に立っていた。ふと気づくと囚われの身のはずのバクーニン(の幻?)がそばにいる。ゲルツェンがコーリャの死について話すと、バクーニンは痛ましいことだというが、ゲルツェンは、短い命であっても彼は十分に生きたのだと語る。「子どもの目的は育つことではなく、子どもでいることだ」。革命を巡るバクーニンとの会話から、ゲルツェンがロシアの村落共同体を社会主義の礎石として再認識しはじめていることがうかがえる。バクーニンがいなくなったあとも、ゲルツェンは語りつづけ、来るべき世界の混乱を予言する。コーリャの名を呼ぶナタリーの声が過去から聞こえてくる。ゲルツェンは「残念だが、あの子には聞こえないよ」とつぶやく。
 1846年夏のSokolovo(冒頭の場面の続き)に戻り、コーリャの名を呼ぶナタリーの声がする。コーリャを探しにいったオガリョフが、サーシャのそばにいるコーリャを見つける。オガリョフはサーシャに、子ども時代にゲルツェンと出合った経緯と、一緒に、モスクワを見下ろす雀が丘にのぼって、革命家になる誓いをたてた思い出を語る。

【感想】
 ほぼ時の流れに従っているので、第一部よりも理解しやすい。耳のよく聞こえない子どもコーリャが、効果的に使われている。科白の言葉も格調高く、また美しく、けっこう酔えるかもしれない。
 ナタリーは第一部のナタリーとは別人らしい。はっきり書かれていはいないが、ナタリーの四番目の子オルガは、ヘルヴェグの子なのかもしれない。
Tom Stoppard (トム・ストッパード)作
The Coast of Utopia (『ユートピアの岸辺』)三部作

第三部 Salvage (『サルベージ』)
【概要】
ゲルツェンのロンドンでの活動、ロシアの若い世代の革命家との対立、アレクサンドル二世の改革に対する期待と幻滅、バクーニン、マルクスなどとの思想的決別を、私生活の混乱とともに描く。

【主な登場人物】
ゲルツェン      ……作家・思想家
サーシャ、タタ……ゲルツェンと亡き妻ナタリーとの間に生まれた子どもたち
オルガ……ゲルツェンの亡き妻ナタリーとおそらくは(第二部の)ヘルヴェクの間の子。
マルヴィーダ(・フォン・マイゼンブーク)
……ドイツからの亡命者。ゲルツェンの子どもたちの家庭教師になる女性。
ヴォルセル(? Worcell)…… 亡命者。ポーランドの民族主義者。
バクーニン       ……ロシアの革命家。
オガリョフ       ……ゲルツェンの親友。詩人。
ナタリー        ……オガリョフの妻。
(第二部 Shipwreck に、ゲルツェンの妻ナタリーの親友ナターシャとして登場する人物)
リザ(? Liza)   ……オガリョフの妻ナタリーとゲルツェンの間にできた子ども。
ツルゲーネフ      ……ロシアの作家。
メアリー        ……ロンドンの売春婦。オガリョフの愛人。
チェルヌイシェフスキー ……若い世代の革命家。『現代人』の編集者。
マルクス(1818-83)    ……ドイツの共産主義思想家。

第一幕
とき    1853年2月〜1857年1月
ところ   ロンドン
 1853年2月。ロンドンのゲルツェンの家は、ドイツ・フランス・ポーランド・イタリア・ハンガリーなど各国の48年革命で活躍し敗れた亡命者の溜まり場になっている。ゲルツェンは長男のサーシャ(13歳)と暮らしているが、知人宅に預けられていた下の女の子たち、タタ(もうすぐ8歳)とオルガ(もうすぐ2歳)もまもなくやっていることになっている。
 客たちの相手に疲れたゲルツェンは書斎の椅子でまどろみ、子どもたちの夢や、亡命者たちが国会議事堂の見える丘を散策し、討論する夢を見る。夢の中で亡命者たちは、自分の過去の栄光にしがみついて尊大に振る舞い、角つきあっている。
 やがてマルヴィーダ(・フォン・マイゼンブーク)がゲルツェンの部屋にはいってくる。彼女は教養豊かな独身女性で、ドイツ人亡命者キンケルの紹介で、タタの家庭教師をすることになったのだ。
 ポーランドからの亡命者、ヴォルセルは、ロンドンでポーランド語の出版をするための資金を援助してほしいとゲルツェンに頼む。キリル文字の活字が手に入ることを知ったゲルツェンは資金援助をする代わりに、自分も彼らの設備や輸送ルートを利用して、本国では出せないロシア語の出版物を印刷し、密かに本国に送ることができるように、話を決める。こうして、5月、〈自由ロシア・ポーランド印刷所〉が設立された。
 一方、タタとオルガがロンドンに来て、マルヴィーダの教育が始まった。教育学を学び、確固たる方針をもっているマルヴィーダは、ゲルツェンや子どもたちの信頼を得て、やがてゲルツェン家に住み込み、全面的に子どもたちの養育の責任を担うことになる。マルヴィーダは、家庭生活の妨げにならないよう、来客日を定め、なおかつ、郊外のリッチモンドに引っ越すよう、ゲルツェンに勧める。
 1854年大晦日、リッチモンドのゲルツェンの家に大勢の亡命者たちが集まった。ゲルツェンが以前ドイツ語でしか出版できなかった著書が、ロシア語の本になって、サーシャに贈られ、場は大いにもりあがる。しかし、前年に始まったクリミア戦争(中近東およびバルカン半島の支配権をめぐって、イギリス、フランス、サルディーニャ、オスマン・トルコの四カ国連合とロシアとの間で戦われた戦争。1853-56)は連合国側に有利に展開していて、そのことが各国の亡命者たちとゲルツェンとの関係に影を落としていた。また彼らの会話から、マルクスもゲルツェンとの立場の違いを鮮明にしていることがわかる。ゲルツェンはふと、シベリア流刑中のバクーニン(の幻?)がいるのに気づいた。バクーニンは秩序こそ諸悪の根源であり、自由を破壊するものを破壊することによって、人間を解放するのだと、ゲルツェンに語る。バクーニンは48年の革命で全てが変わったと意気軒昂だが、ゲルツェンには、48年の革命の挫折によって、全てが元通りになってしまったようにしか思えない。
 1855年3月ニコライ1世が病死し、あとを継いだアレクサンドル2世は解放的な政策を打ち出した。ゲルツェンは新しい雑誌『北極星』を出し、新皇帝への公開書簡の形でさまざまな提言をした。だが、ポーランドのヴォルセルとは目指すものが違ってきたため、両者の間に深い溝が出来た。そんなとき、ロシアから親友のオガリョフとその妻ナタリーがやってきた。ナタリー(第二部ではナターシャ)は、ゲルツェンの亡き妻で同じ名のナタリーの親友だった人だ。オガリョフの妻だったマリアが死んだので、オガリョフと結婚することができたのだ。オガリョフに子種がないため、ふたりには子どもがいない。オガリョフは48年以降のロシアは暗黒の時代であり、ゲルツェンが外国で印刷して送り込むパンフレットは、むしろ仲間たちの反発を買っていたと話した。オガリョフは健康を害しているようで、時折、てんかんに似た発作を起こす。オガリョフ夫妻が同居するようになって、子どもたちの生活は乱された。1856年、ナタリーとの度重なる衝突の末、マルヴィーダがゲルツェンの家を去った。
 1857年1月ヴォルセルが死に、その葬儀の日に、ゲルツェンとナタリーは接吻を交わした。

第二幕
とき   1859年5月〜1868年8月
ところ  ロンドン〜ワイト島〜ロンドン〜スイス

 1859年5月 ゲルツェンは47歳になっており、子どもたちも成長している。サーシャは20歳で、医学を勉強しており、タタはもうすぐ15歳、オルガも9歳になる。そして、ナタリーが生んだ赤ん坊でもうすぐ1歳になるリザがいる。表向きはオガリョフの子だが、実はゲルツェンの子であることをオガリョフもゲルツェンも知っている。ナタリーは精神的に不安定な状態にあり、すぐに泣いたりわめいたりする。セックス依存症の傾向もある。ナタリーとゲルツェンの裏切りによって、オガリョフも深く傷ついていたが、ゲルツェンへの深い友情から、奇妙な同居生活を続けているのだった。
 一方、ゲルツェンたちの出版活動は順調で、雑誌『鐘』は部数五千部にのぼり、ペテルスブルクの王宮でも読まれている。
 そんなある日、ツルゲーネフが訪ねてきた。ツルゲーネフはロシアで、チェルヌイシェフスキー(1828-89)の編集する雑誌『現代人(サヴレメンニク)』に執筆しているが、チェルヌイシェフスキーら、若い世代の急進派と歩調があわなくなっているとうちあけた。
 6月、オガリョフはなじみの子持ちの娼婦、メアリーを囲い、その家に移った。
 7月、チェルヌイシェフスキー(31歳)がロンドンに来てゲルツェンを訪問した。チェルヌイシェフスキーはゲルツェンの書く記事が、自由主義者だけでなく反動的な人々を喜ばせていると指摘し、政府から金をもらっているのではないかと激しく非難した。ゲルツェンが上からの改革もありうると考えているのに対して、チェルニシェフスキーは皇帝を全く信用していないのだった。そこへオガリョフがやってきて、メアリーが病気なのでつれてきたという。よく聞くと彼は、メアリーとその子どもとともに、ゲルツェンの家にもう一度住み込むつもりなのだった。ナタリーはそれを知って半狂乱になった。
 1860年8月。英仏海峡にある島、ワイト島の海岸を、マルヴィーダとオルガが散歩している。オガリョフがメアリーを家に入れたため、怒ったナタリーはリザを連れて、ドイツの妹のところにいった。ナタリーになついていないオルガは、マルヴィーダに託されたのだった。近くのベンチに、ツルゲーネフが座っていて、居合わせた若い男と会話を交わす。男は医師で、ニヒリストを自称し、一切の抽象的な価値を信じない。ツルゲーネフがのちに『父と子』で描いたような四〇年代世代と六〇年代世代のギャップが明らかになる。
 1861年3月 ロンドン(リッチモンド)のゲルツェンの家。ナタリーとリザ(2歳)が戻ってきており、オルガもタタもいる。ロシアで農奴解放令が出たというニュースが伝わり、ゲルツェン一家は喜びにわく。
 12月。ひと月前にナタリーは男女のふたごを生んだ。ゲルツェンが片方をあやし、ナタリーがもう一方に乳をやっている。オガリョフは机で書き物をしている。農奴解放令は幻滅をもたらしていた。農民は自由になったものの、今まで耕していた土地も、世話をしていた家畜も何ひとつ与えられず、地代を払わなくてはならなくなったのだ。そのため、各地で反乱が起き、鎮圧された。『鐘』はさっぱり売れなくなった。
 そこへシベリアから脱出したバクーニンがやってきた。彼は『鐘』に加わりたいという。バクーニンが来てから、急進的な若いロシア人が盛んに出入りするようになった。彼らはロシア国内に〈土地と自由〉という秘密組織をつくろうとしていた。〈土地と自由〉の綱領はオガリョフが書いた。暴力革命に反対するゲルツェンはオガリョフやバクーニンが秘密組織作りに関わるのを嫌い、幼稚なスパイごっこだと批判した。
 1862年8月、悪い知らせが届いた。連絡員がつかまり、もっていた文書にあった名前から、32名が逮捕された。ゲルツェンが書いた「『現代人』が発禁になったら、ロンドンで出版してあげよう」というメモのせいで、チェルニシェフスキーも逮捕された。(この逮捕がきっかけで彼はシベリアで四半世紀にわたる流刑生活を送ることになる)。
 1864年秋、ゲルツェンはナタリーの希望により、スイスのジュネーヴに移った。オガリョフもしぶるメアリーをつれて同行した。タタとオルガはこれ以前に、イタリアのマルヴィーダのもとに移っていた。
 1866年4月、カラコーゾフという青年によるアレクサンドル2世暗殺未遂事件が起こった。5月、かつての『土地と自由』の若者のひとりがジュネーヴのゲルツェンを訪ね、カラコーゾフの事件について出版をしたいからと資金援助を求めた。ゲルツェンが暗殺計画を暴挙だと批判すると、相手はゲルツェンを時代遅れと罵り、徹底的に否定して去った。
 1868年8月、ジュネーヴ郊外のゲルツェンの家。ゲルツェンは57歳。死まで二年足らずしかない。サーシャ(29歳)はイタリア人の妻を迎え、赤ん坊が生まれている。ナタリーのヒステリーはひどくなっている。ナタリーのふたごの赤ん坊は、パリでジフテリアに罹って死んだのだが、彼女はそれを、パリへ行きたがった自分のせいだと思っているのだ。タタは23歳、リザはもうすぐ10歳。オガリョフはゲルツェンの家の近くにメアリーと住んでおり、しょっちゅう顔を出す。
 旧知のポーランド人印刷業者とバクーニンが訪ねてくる。バクーニンは新しい組織〈社会民主主義連盟〉をつくり、それをマルクスのインターナショナルのジュネーヴ支部にするつもりだ。バクーニンはマルクスと自分の考え方が違うのを承知の上で、いわば「トロイの木馬」としてそれをマルクスの組織の中に送り込もうとしているのだった。
 ゲルツェンがバクーニンと話していたとき、一台の馬車が到着した。イタリアからモルヴィーダとオルガがやってきたのだ。
歓談するうちに、ゲルツェンは眠くなり居眠りを始めた。夢の中でツルゲーネフとマルクスが話している。自分の歴史観をとうとうとしゃべるマルクスに、ゲルツェンは声をかける。「歴史は同時に千もの門をノックする。門番はチャンスだ。私たちはこっちをあけてくれ、あっちをあけてくれ、と叫ぶ。だが、門を通り抜けてもまた、千の門があるのだ。私たちは機智と勇気によって前に進む。それと同時に、私たちの進む道が私たちをつくる。それだからこそ、人間としての威厳が保てるのだ。歴史的必然というものによって、自分たちから責任を取り除いてしまったら、私たちは人間としての威厳を失う」。だが、マルクスもツルゲーネフもゲルツェンを無視して通り過ぎていく。
 めざめたゲルツェンのところに、リザが切れたロープ(牛のおもがい)を見せに来て「切れちゃった」とロシア語で言う。ゲルツェンもロシア語で彼女に言う。「キスしてくれるかい?」リザは「ダー(うん)」と答えて、キスをする。
 夏空に稲妻が光り、陽気な悲鳴があがる。雷が鳴り、舞台はどんどん暗くなっていく。

【感想】
 Voyage、 Shipwreck のあとの Salvage なので、救いがあるのかと思ったら、「革命」もゲルツェンの私生活もどんどん悲惨になっていく。辛うじて救いが感じられるのは、芝居の終わり近く、夢の中でマルクスに反論するゲルツェンの言葉と、めざめたあとのリザとのやりとりだろうか。ゲルツェンの言葉は、人類の進歩についてのものだが、ひとりの人間の人生についての言葉ととってもいいかもしれない。
 ずっと前のほうにも、ゲルツェンがマルクスを批判していう言葉があり、この最後の言葉に通じるものがある。「マルクスは労働者から『貴族性』を奪う。人間には自分の人生を裁量する自由があるはずだ――自分の人生をめちゃくちゃにする自由も含めて」。ゲルツェンがふたりのナタリーの人格を崩壊させ、オガリョフを傷つけたことを思うと、人間(自分)の愚かさについての開き直りともとれる言葉だが、この開き直りには痛切さがあり、滑稽ではない。必死に人間としての誇りを保とうとする気持ちが表れている。
 バクーニンの扱いもおもしろい。第一部の主人公はバクーニンだし、第二部の終わりと第三部の中ほどで、いるはずのないバクーニンが現れて、ゲルツェンと話をする。思想的な立場は違ってもバクーニンはゲルツェンの心の中にいるのかもしれない。
 ヨーロッパの革命、とくにロシア革命に興味のある人や、ロシア文学、カント、ヘーゲルなどに興味のある人には、とても見応えのある芝居だと思う。
 この芝居に書かれている時期のすぐあとで、ドストエフスキーの『悪霊』のモデルになったネチャーエフの事件が起こり、バクーニンやオガリョフが巻き込まれる……というあたり、歴史って本当におもしろいなと思う。
 ともあれ、この三部作、団塊の世代以上のインテリ層にはかなり受けるかもしれない。


 copyright © 2003 Mizuhito Kanehara

 last updated 2003/9/29