管理者:金原瑞人

『YOU MUST KISS A WHALE』 David Skinner
HALF MOON BOOKS  1992年 出版
94 ページ

(主な登場人物)
イヴリン・・・13歳の少女。この物語の主人公。
ザック・・・・イヴリンの弟。
ケビン・・・・イヴリンの父親が書いた物語の主人公。

(あらすじ)
砂漠に住む少女イヴリンは、ある日、家をでた父親が書いた物語をみつける。その物語を読むうちに、イヴリンは両親の思いを少しずつ理解していく。

 あの夏の日を思いだす。毎日のように雨が降り続き、舗道には雨水があふれだし、靴も靴下もはかずに外に飛びだした。ようやく晴れ間がみえたとき、父親と一緒にアスファルトのわきにできた水たまりをのぞきこんだ。街灯が反射し、きらきらと輝いている。それからふたりで、その輝く水の上をわたった。
 イヴリンはいま十三歳。母親と弟と三人で砂漠の真ん中に住んでいる。父親がいなくなってからすぐにここへやってきた。なぜ砂漠なんかにきたかというと、それは毎月きまってやってくる嵐のせいだった。いつでも同じようにやってきては、同じ道を通っていく。そんな意外性のなさに母親は魅力を感じたのだ。ここの嵐はいつでも予測できる。あてにならない、いなくなった父親と違って。
 母親はいま裏庭のテントにこもり、秘密の仕事をしている。嵐に立ち向かうことができる究極のレインコート作り。それがその秘密の仕事だった。だがどんなものを作っているのかは、決して教えてはくれなかった。これまでにもいくつも作ったが、全て失敗におわっていた。途中でイヴリンに教えたのがいけなかったと母親はいう。だからこそ「秘密」の仕事なのだ。朝から晩までテントにこもりっきり。食事のときと寝るとき以外、ふたりが顔をあわせることはめったにない。そのため一歳になったばかりの弟、ザックの面倒をみるのはイヴリンの役目だった。それでもイヴリンは一向にかまわなかった。ザックはまだ言葉が話せないから楽だったし、第一に、それ以外、何もすることがなかったのだ。本来なら学校にいかなければいけないのだが、母親の頭の中からは、そんなことはきれいにぬけてしまっているらしい。とにかく、イヴリンは暇をもてあましていた。
 この家には嵐によってこわれた部屋がいくつかあった。イヴリンはよくザックをつれてその部屋へいき、崩れた天井や飛び散ったガラスに気をつけながら歩きまわる。
 そんなある日、こわれた部屋の一つに箱をみつけた。いろいろなものが入っている。懐中電灯、小さな銅製の鈴、かかしの人形。イヴリンにも見覚えがあるような、なつかしいものまであった。きっと母親のものだ。けれどなぜこんな遠くの部屋においてあるのだろうか。
 その箱のなかに、小さな紙の束がはいっていた。とても読めないようなひどい字がびっしりとつまっている。だがしばらくして、イヴリンはそれが何かの物語であることに気づいた。こんなふうにはじまっている。
 
 
 『ケビンあてに一通の手紙が届いた。You must kiss a whale. そこにはただその一言しか書かれていなかった。あいさつも何もない。紙は一度ぬれて、乾いたあとのようにしわしわになっている。そしてそこに書かれている文字といったら、あまりにきたなく、とても読めたものではなかった。消印からすると、海岸の町から出されたものらしい。
 しかし、ケビンには誰からのものなのか、見当もつかなかった。 You must kiss a whale. これはいったいどういう意味なのだろうか』
 
 
 お父さんの字だ! お父さんが物語を書くなんて! イヴリンはふいに父親が恋しくなった。あの雨のアスファルト、輝く水たまりを思いだす。
 その日以来、イヴリンの忙しい毎日がはじまった。母親がテントにこもっている間は、その部屋で父親の書いた物語を読んだ。そしてそのひどい字をなんとか読みとっては、別の紙に書きうつしていった。次の嵐がくるまえになんとかおわらせなければならなかった。母親が家からでることがなくなれば、こうして箱をあけることすらできなくなる。
 
 
 『ケビンはその頃、ひどい病気にかかっていて、ずっと家で寝たきりだった。そしてようやくベッドをでられるまでに回復してきたとき、母親が雑誌や飲み物といっしょに、その手紙をもってきた。
 それにしてもひどい字だ。You must kiss a whale. 「s 」の文字が特に読みづらい。「kiss 」それとも「kill」? 何度も何度も、読むたびに違ってみえる。それにいくら考えても、まったく意味がわからない。手紙が届いてからというもの、ケビンの頭の中はそのことでいっぱいになった。そして体調が回復すると、学校にいくふりをして、ケビンはタクシーに乗り込み、海岸の町へとむかった。You must kiss a whale. その言葉の意味を確かめに。
 タクシーの運転手は親しげに話しかけてくる。ケビンにはそれが嬉しいというよりも、かえって面倒くさく感じた。だがふと考えた。もしかしたら、この運転手にはあの言葉の意味がわかるかもしれない。そこでケビンは思い切って手紙をみせてみた。だが結局、期待は裏切られた。やはり運転手にも理解できない。しかし運転手はこういった。海岸の町には大学があるから、そこにその手紙をもっていったらどうだろうか、と』

 
 たいへんな事件がおこった。イヴリンはいつもその部屋にいくとき、ザックを寝かしつけてからいくのだが、その日はザックがなかなか寝てくれず、しかたなく一緒につれていくことになった。それが間違いだった。イヴリンが物語を書きうつすのに夢中になっている間に、ザックが箱の中身をひっかきまわし、かかしの人形を力ずくでひっぱりだしていたのだ。イヴリンは思わず悲鳴をあげた。もちろん、テントの中の母親にまではその声は届かなかったが。とにかく、こんな箱を母親がみたら、この箱をいじったことがすぐにばれてしまう。なんとかもと通りにおさめなければ。イヴリンは必死になって、むりやり中身を箱にもどすと、ザックのおもちゃを毛布にくるみ、ザックと毛布をかかえてその部屋をとびだした。しかし、そのときイヴリンはもうひとつミスをおかしていた。なんと他のおもちゃと一緒に、かかしの人形を毛布にくるんでしまっていたのだ。おかげでその日の夕食は、イヴリンにとって悲惨なものとなった。食べている最中にその人形のことを思いだしたのだ。目の前には母親がいる。いまもとにもどすことはできない。たいへんだ。もし母親がザックの部屋にいったら・・・。
 だが心配にはおよばなかった。夕食も食べおわらぬまま、母親はまたテントにもどってしまったのだ。ザックの部屋をみようともせずに。もちろん、人形などみつかるはずもない。母親は嵐のことで頭がいっぱいなのだ。ザックの相手をすることもなければ、イヴリンに話しかけることもなかった。
 いま日はベッドの下に隠しておいて、明日、もとにもどしておこう・・・。

 
『ケビンはひとり、言語学の教授の部屋へ向かった。ドアをノックする。
 「どうぞ」教授のいらいらした声がいった。
 ドアをあけて中へはいると、教授はちらっとケビンをみていった。「ご用件は。だれのお使い?」
 教授はとても忙しい様子だったが、ケビンはどうしてもあの言葉の意味を知りたかった。そして面倒くさそうにする教授に手紙を渡し、ようやく答えがわかるのだろうかと期待する。だが教授からかえってきた答えはこれだった。
 「kirr なんて言葉、きいたこともないわねえ」
 Kirr ?! ケビンは頭にきて手紙をとりげた。
 「kirr じゃなくて、kissだよ!」
 「kiss? だれがくじらにキスをするの? そんなことありえないわ」
 話にならない。ケビンはむっとしたままその部屋をあとにした。
 タクシーの運転手が待っていてくれた。ケビンはタクシーに乗り込むといった。「あの言葉は全部おかしいんだ。もうどうでもいい。ただのいたずらだったんだよ。家に帰りたい」
 そのときだ。大学の生徒たちがあわてた様子で走ってきて、こういった。
 「いま朝、岸にくじらが打ち上げられたんだって! しかもまだ生きてるって!」
 ふたりは思わず顔を見合わせる。
 海岸沿いは、くじらをひと目みようと駆けつけた人々でひしめき合っていた。空にはヘリコプターが旋回している。岸から遠くにとめたタクシーの中にいても、人々の騒ぐ声がきこえてくる。ケビンはこわくなり、思わずふるえた。手紙は間違いなんかじゃなかったんだ。しかし、ケビンはひとりでそこまでいく勇気がなかった。
 だが運転手に勇気づけられ、ようやく決心がついた。手紙をポケットにしまい込む。そして運転手に手をふると、ケビンはひとり、岸に向かった』
 
 
 ここまで書きうつしたところで、紙がなくなってしまった。母親が紙をたくさんもってはいるが、そこから勝手にもらってくるわけにはいかない。なんとかして手にいれなければ。それからもうひとつ。部屋の中が暗いので何か明かりが必要だった。もう嵐がすぐそこまできているため、空には雲がたちこめて、太陽がすっかり姿を消してしまったのだ。そのときイヴリンは箱の中に懐中電灯がはいっているのを思いだした。けれどもこれも電池が必要だ。
 だが幸いなことに、次の日、みんなで町まで買い物にいくことになった。嵐がくる前に、必要なものをいろいろと買いそろえておくのだ。買い物かごに紙と電池をそっといれておけばいい。母親はどうせ気づきはしない。
 電池をいれた懐中電灯で部屋を照らす。雨がひどくなってきている。天井の割れ目から雨水が落ちてきてはいたが、イヴリンはぬれない場所をさがして作業をつづけた。もう時間がない。いま日の午後にはスコールがくるらしい。嵐の前触れだ。それまでになんとかおわらさなければ。
 
 
『くじらのまわりには人々が群がっている。カメラマンもいればニュースキャスターもいた。人々はくじらに触り、また中には記念にひとかけら持って帰ろうと、くじらを切ろうとするものもいた。ケビンはというと、警察官にとめられ、そばにいくことができずにいた。
 「あれはマッコウくじらだ」
 そのとき、だれかがケビンに話しかけてきた。ふりむくと、そこにはぼろぼろの服をきた男が立っていた。
 「みろ、でっかいだろう」
 くじらはたしかに大きかった。だがケビンは驚いていたのはそんことではなかった。くじらは生きている。まだ体を動かし、目はあたりをみまわしている。
 「あいつは助からない」男がいった。「助からないよ。みんな必死に助けようとしているようだが、どうしたって無理なんだ」
 ケビンはむっとし、そこを離れようとした。そのときだ。
 「ちょっとまて、ケビン。おれの手紙受け取ったんだろ?」
 そう、この浮浪者こそ、あの手紙の送り主だったのだ。
 「おれはあのくじらがこうなることを知っていた。おれは何でも知っているからな」
 ケビンは何もいわず、ただじっと男をみつめていた。
 「だがな、おれは何でも知っていても、何でもできるというわけではない。おれは無力だ、おまえのようにな」
 そういわれて、ケビンは思わず男をにらみつけた。「どういう意味だよ」
 「だから、無力なんだよ。おまえがあのくじらに何もしてやれないのと同じことさ。そういうことだ。ああなった以上、だれも助けてやることはできない。あそこにいる科学者たちは、どうやって助けようかなんて話はしていないんだ。マッコウクジラのことなんて、たいして知りもしないんだからな。研究目的で集まってるだけさ。でも、あいつらが科学者であることを責めたりしちゃいかん。まあとにかく、あのくじらは助からないってことだ」
 そしてケビンはいった。「だからぼくが殺すの?」』
 
 
 ここまでだった。なんということだ。こんなところで話はおわってしまっている。どうみても物語が完成しているとは思えない。なぜ父親は途中で書くのをやめてしまったのだろうか。それより、なぜ母親はこんな中途半端な物語をとっておいたりするのだろうか。イヴリンは不思議に思った。この物語だけにかぎらない。父親を思いだすようなものを、母親はみんなこの箱につめてとってある。父親は家族をおいてどこかへ逃げてしまうような人だ。それなのに、なぜ・・・?
 だがとにかく、物語はおわってしまったのだ。この先はどこにもみつからない。これでまたイヴリンは毎日ひまをもてあますことになる。
 それと同時に、母親のレインコートが完成した。
 
 嵐はすぐそこまできている。母親が家にいるため、イヴリンはもうこわれた部屋へいくことができない。そして母親はというと、何をするでもなく、ただ家の中をうろうろと歩きまわり、何かぶつぶつとつぶやいていた。そう、ただひとりでつぶやくだけ。イヴリンに話しかけてくることはない。ザックにかまってやることすらなかった。かわいそうなザック。イヴリンは思った。ザックは一生お父さんを知らずに過ごすのだろうか。お母さんだけなのだろうか。そのお母さんでさえ、全然ザックにかまってやらない。
 そしてイヴリン自身も母親の態度には腹を立てていた。ひとりでぶつぶついってないで、自分に話しかけてきてほしかった。そのとき、いい考えがぱっとひらめいた。あの箱の中にあった鈴。あれをザックにつけてやれば、動くたびに音がする。そうすれば、きっと箱をいじったことに気づき、怒ってわたしに何か話しかけてくるはずだ。イヴリンは、母親がレインコートを取りにいっている間に、さっそく鈴を取りにいった。
 ついに嵐がやってきた。家ががたがたと揺れはじめる。
 「レインコートが完成したわ。外にあるの、いや、ない、というべきかしら」母親がいった。
 イヴリンにはいったい何のことだかわからなかった。レインコートなどどこにもみあたらない。
 「どこにもないって思ってるでしょ。でもあるのよ、あそこに。まあ実際はないんだけど。つまりね、あそこにいない人だけが、実際はないレインコートを着られるってこと。ほら、だってわたし濡れてないでしょ!」
 イヴリンは力なく微笑むと、ザックをつれてその場を去った。どうやら鈴の計画は中止にしたほうがよさそうだ。母親はついに気がおかしくなってしまったらしい。もうどうでもいい。イヴリンは投げやりな気持ちになっていた。
 それからしばらくはひどい嵐の日々が続いた。そしてようやく晴れ間がみえはじめたとき、イヴリンは隠しておいた鈴をもどしに、箱のある部屋へむかった。そして部屋へたどりついたとたん、驚きのあまり思わず転びそうになった。なんと母親が箱のわきに座っていたのだ。イヴリンはあわてて廊下にとびだした。だがどうやら母親は気づいていないようだ。こちらに背を向けて、ただじっと箱をみつめている。中身をあけるのだろうか。あの物語を読むのだろうか。イヴリンは壁の裂け目からそっと様子をうかがっていた。だが母親は動かない。ただじっと、箱をみつめている。イヴリンはそっとその場を離れた。
 そして次の日、さらに驚くべきことがおきた。イヴリンがキッチンに座っていると、なんと母親があの鈴を手にやってきたのだ! 怒っているようすはない。しかし箱をいじったことはばれてしまったようだ。イヴリンは仕方なく、父親の物語を書きうつしたことをうちあけ、素直にあやまった。ところが「あんながらくた、ほうっておきなさい」という母親の一言に、イヴリンはついこんな言葉を口にしてしまった。
 「じゃあ、なんでとっておくの?」
 いってしまったあと、イヴリンは後悔した。お母さんを傷つけてしまった。お母さんが泣いてる。だがなにより驚いたのは、母親のこの言葉だった。
 「お願いだから、わたしから離れていかないで」
 イヴリンは言葉がでなかった。お母さんはまだお父さんを愛しているんだ。そして、わたしたちを砂漠につれてきて、ほったらかしにしてきたことを後悔しているんだ。いうべきことはあるはずだった。だが声にならず、イヴリンはその場に呆然と立ち尽くした。
 
 結局、あの物語の結末は母親も知らなかった。そこでイヴリンは自分なりに物語をおわらせることにした。
 
『「殺す? どういうことだ?」
 「手紙にそう書いてたじゃないか、違うの? あれじゃあ字がきたなすぎて読めないよ」
 すると男は驚いた顔でいった。
 「おれが書いたのは、YOU MUST KISS A WHALE だよ」
 「でも、なんでくじらにキスするの?」
 ケビンがそうたずねると、男はケビンのほうに身をかがめてこういった。
 「かわいそうなくじらを楽にしてやるためさ」
 そして、ケビンはくじらにキスをした。警察官に引っぱりもどされたが、ケビンは幸せだった。そしてくじらも幸せだった。』
 
 
 あの日以来、母親をみかけていない。いつ食事をしているのか、どこで寝ているのか、イヴリンにはそれすらもわからなかった。が、ある日、例のこわれた部屋へいってみると、そこには母親の姿があった。箱のわきに座り、中身をひとつずつ手にとっては、思いだすようにながめている。そして中から、一枚の紙を取りだし、イヴリンに手渡した。「これが何だかわかる?」
 それはイヴリンが六歳のとき、母親がコンピューターで作ってくれたものだった。母親のひざの上で、イヴリンはきれいな色の線が次々に描きだされるのをみていた。あのとき、まだ小さかったイヴリンの目には、その線がまるで輝く虹のようにみえていた。
 それはイヴリンが長いこと忘れていた、母親との思い出だった。
 
 それから間もなく、砂漠から別の町へと引っ越した。そしてイヴリンはいま大学生。大学の寮にはいって、いまは試験勉強の真っ最中だ。そのとき、電話の鈴がなった。ザックからだ。イヴリンはふと、砂漠で生活していたころのことを思いだす。あの頃、イヴリンはいつも母親を責め、そして父親をなつかしんでいた。だがそれが間違いであることが、いまになってみるとよくわかる。母親を責めるべきではなかった。そして父親を許してはいけないのだ。しかしイヴリンは長い間、あの物語の世界にどっぷりとつかっていたことで、父親を理解できたような気がしていた。たとえ許すことはできないとしても。そして、父親がなぜ自分たちから逃げていったのかも、いまとなっては理解できる。
 ザックは毎日のように電話をかけてきた。ザックはイヴリンに会いたがっている。それはイヴリンも同じことだ。しかし、いくら離れていたって、ふたりはお互いの居場所を知っている。そしてこの試験がおわれば、また会えるということも。

 copyright © 2003 Mizuhito Kanehara

 last updated 2003/12/25